母の癌闘病を、振り返ってみます。
どんな事件があったか、何を調べたか、どう対処したか、どんな結果になったか。
忘れないように。目を背けないように。
自分のために。
当時の母の症状が出た時と、その事実を私が知った時間との間にはタイムラグがあります。ここでは、後から両親から聞いた話を思い出しながら時系列に組み立てました。母も薬剤師でした。
母の癌・闘病記。母の闘病【初期症状】
「食べ物が飲み込みにくい。」
こう感じて、近所の耳鼻咽喉科に行ったのが最初のキッカケのようだ。
そういえば、帰省時、母がスゴくゆっくり食べていて、ほとんど残していたのを思い出した。
後から振り返ると、その時は既に喉の調子が悪い事に、本人は気づいていたんだろうと思った。
私は気づかなかった。元々母は私よりかなり少食だった。
クリニックでは、喉に何かある事のみ指摘あったよう。
その後、近くの中病院に紹介してもらい、精密検査を受ける事に。
もし、側から見て、「あれ?」と違和感を感じるような事があれば、何でも言ってみて!急激な痛み等を生じない病気だと、本人も周りも、本当に気づきにくい。本当に。 だから、「あれ?」という違和感に、敏感に反応する事が大事なのかも。
母の癌・闘病記。母の闘病【癌の発覚・癌の告知】
中病院で、精密検査を受ける。
検査で癌が発覚。
私は、母からのメールで、母が癌であると知った。1歳になったばかりくらいの赤ん坊を連れて、病院に行った。
癌の具体的状態、ステージ等は全くまだわかっていなかった。
わかった事は、食道癌 という事。
タバコは吸わず、酒はたまに1杯。月に1度も飲んでない。こだわりの食材。手作りの食事。
なのに食道癌という事実。
良い食事は健康な体を作る、という観念にヒビが入った瞬間。
この時は全く重病な感じはなかった。大病院で手術をすれば大丈夫、という雰囲気であった事を覚えている。
この時点で、痛い等のわかりやすい症状はない。食欲もあり、ぱっと見は健常時と変わりない。これが癌の怖さなんだと思う。 親の、大丈夫大丈夫という感じだったのを真に受けていた。後から、大丈夫なのではなく、病状や治療内容を理解していない事がわかった。 病気の中身を知る事から目を背け、医師の言う通りにしていればいい、とだけ思っていた事がわかった。。
母の癌・闘病記。母の闘病【癌治療・手術編】
中病院にて、食道癌の治療はここがいいのではないか、と大病院を紹介してもらった。
ネットや本でみても、食道癌の治療では常に上位に名前が出る紹介先。
都内の大病院なんで、有名な所だらけで、ネットや本の検索は限界を感じた。どの病院もいい事が書いてあるし、これらの情報からベストをひとつ選べと言われても選べない。
両親が、いつ、この病院で治療を受けるんだ!という決意をしたかはわからない。気づいたらこの大病院での治療がはじまっていた。
私は私で調べてみたが、良さそうだし、どうしてもこっちじゃなきゃダメという代替案もない。この病院でいいはず、と信じた。
母が癌になってしまったが、父はお金の事も含めて大丈夫という感じであった。いつも大丈夫大丈夫と言っていた。母も淡々としていた。
私は、遠方に住んでいた事と子供の世話でワタワタしていた事で、母の手術は両親に任せて、報告を待てばいいかなと思った。
手術前に一ヶ月程検査入院していたよう。しかも個室。(都内病院の個室は一番安い部屋で3万〜4万程かと思う。)
普段はケチでも、生活費や医療費という名のつくものになると金勘定ができなかったようで、後にこれらの経費が重くのしかかる。
病名は、上部食道癌。
手術内容は、上部の食道と、声帯も切除。
最初聞いた時はびっくりしたが、癌の場所的に声帯切除は避けられなかったようだ。
ステージは、母にはとても聞きにくかったので、父に聞いた。父は、ⅢだかⅣだかで、とにかく軽くない、自分とは違って。と何度も言っていた。
母のガン判明の数年前、父がステージ1くらいの大腸ガンに罹患。定期検診での発見。大腸の一部を切除後、何ヶ月か抗がん剤の内服薬を働きながら飲んでいた。その後10年以上転移等無し。今振り返ってわかった事だが、父は母の闘病時代、自分の少しひどいバージョンという認識しかしていなかったようだ。後に、私は、ⅢかⅣかを含めて、具体的に突き詰めなかった事を後悔する事になる。
その後、手術は無事終了し、退院しているとの連絡が入った。
私が帰省した時は、私と赤ん坊の3人で買い物に行ったり、美容院に行ったりもした。
母は、声が出せなくても、ベビーカーにいる赤ん坊を団扇などを使ってあやしてくれた。
見た目は 元気そうだったのと、治療と治療の方向性がスムーズに進行しているように見えていたので、私は2ヶ月に1度程実家に帰る状態を継続。
声帯摘出で声が出せない生活を想像し、色々調べて母に提案。
こういう調べ物は、ネットが最適。
そして、採用されたのは、電子メモ帳のみだったが。
この時点では、母はご飯を自分で作っていた。
声が出せないことで、父との意思疎通が以前よりもできなくなってるように感じた。
ただ、元々できていなかったので、そこまで気にしなかった。
抗がん剤を受ける前までは、まだ両親2人で充分闘病を乗り切れると心底信じていた。
発覚から手術終了までの期間は、半年近くになったと思う。
母の癌・闘病記。母の闘病【癌治療・抗がん剤編】
後に、思い出すのが一番辛い治療になってしまった時期。
点滴抗がん剤。1クールのみでギブアップ。内服の抗がん剤は無しだったと思う。
一番辛かった。それは何故か?その話を今からしようと思う。
とある日、私はいつものように帰省した。
実家に帰ると、母がいつも玄関まで出迎えてくれるのだが、その日は初めて出迎えがなかった。
「ただいま〜」と言っても、
シーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン、、、、、、、、、、。。。
あれ??なんか、何この空気?帰る時間もメールで連絡取り合ってたし、どうしたんだ??
なんか違う。なんか空気が違う。
ピーーーーン とした空気。雰囲気が痛い。赤ん坊を抱っこしながら、心臓のドキドキが頭の中に広がってくる。
誰かがトイレに行く音がした。
あ、寝てたのか、起きたのか、トイレか。じゃあ、来るかな?と思って待機。
トイレから出たら、バタンっと部屋の閉まる音。
トイレに行くのが精一杯って事?何があったの?
実家なのに、怖くて怖くてたまらなかった。
知らないお化け屋敷に入った気分だった。
そこからの記憶があまりない。怖すぎて、立ちすくんでいたような気がする。
そして、父の姿を発見し、何かあったか聞いたような気がする。
そして、父は、ちょっと体調が悪いから下には来られないのかな?くらいの反応。
そんなに重大なことが起きてるような感じではなかった。
なら、大丈夫かなと思って、父と一緒に母の部屋に行った。
そして、私は、母を見て目が飛び出るくらい驚き、その驚きを隠すのに、心拍数の上昇と戦ったような記憶がある。
私の驚きで、母にショックを与えたくなかった。
ありえないくらい痩せていた。
髪はまだらに抜け、丸見えの地肌をうっすらとした霧が覆っているかのよう。
顔や手足は骨骨で、筋張っている。筋肉はない。
誰? 母なの? 道端で会ったらわからないかもしれないくらいの変貌。
ただ事じゃない何かが起こった事だけわかった。
何が、何があったの。
母の部屋を離れた後、父に聞く。
私「なんでこんなに、母の状態が変わった?何があった??」
父『そんなに変わった?抗がん剤を受けたんだけどね、そこから体調悪くて寝てることが増えてね。』
私「痩せすぎじゃん、やばいじゃん!入院しなくていいの?」
父『抗がん剤を1クール受けた時点でね、お母さんはもう絶対病院イヤ!!!家に帰る帰るってなった。だから病院には行けない。お母さんの言う通りにしないと。』
私「え?そんなに嫌なことがあったの?」
父は、なんて答えたか、記憶にない。何も言ってなかったかも。
とにかく、母が 誰かわからないくらい変貌していることに、父が同意することはなかった。
変貌に気づいているけど、私に対して言わないだけなのか、本当に気づいていないのかはわからなかったが、
前者であってほしいと思っていた。
後に、後者であったことがわかった。。。。。
母の癌・闘病記。母の闘病【在宅療養】
上記の通り、母は急変。
発声不可、筆記会話は術後と同じ。
父は、「母の言う通り、病院に行っていないので、母の希望を叶えている。」と言う。
母の希望は叶えているかもしれない。
でも、母を生かそうとはしていない。目の前の母は、とても食事できてるとは思えない。点滴もしていない。
そして、この状態の母が食べられそうなものを父が調べたり作ったりできているとは思えなかった。
私は夫に連絡し、しばらく実家で母のご飯を作りたいと言った。 とりあえず、この状況でできることは、摂取できる栄養について考える事しか思いつかなかった。
海外に住む姉にもヤバイヤバイと連絡した。
母は、意識はあって、トイレには自力で行く、食べたい食べたくないの意見は明確、病院に行く事と、家族以外の他人は受け入れないという感じだった。
母の状態が見るからに違う恐怖から、ここになって、相当色々なことを調べた。
甘く見てたと思う。
この短期間でここまで急変する可能性は、考えていなかった。
姉も帰国した。
治療チームが増えるのは嬉しい。相談しあいながら進めた。
食事 : 本人が飲んでいたものは、人参リンゴジュース、バナナヨーグルトジュース、カフェラテ。母の指示時に、父が作っていたよう。私は、人参リンゴジュースの本や、ガンの栄養についての本を読んだ。最低限これだけ摂取すればよさそうなものをノートに書き出した。少量で大きな栄養源になりそうなもの、かつ母が食べられそうなものを探しまくった。母は、添加物をできるだけ排除する食生活で、サプリも薬も嫌いだった。元々母が好きだった辰巳芳子さんの いのちのスープ の本は実家にあったので、読んで何度も作った。食べれそうなものを 多種類作ってお盆に並べたが、大抵一口飲んで、首を横に振った。
治療の調査 : 医療関係の国家免許を持つ人が書いた本やネットを見て、自費も含めどんな治療があるか、どれならできそうかを調べた。購入した本の中に、実際著者と相談できる窓口が記載されているものもあったので、電話相談した。最終的に、大病院では行っていない200万程の治療(本の中に、これについての記載はない)と、簡単に日本で手に入らない漢方の推奨があった。 埼玉の癌で有名な病院にも電話してみた。 私が「ヤバイんです」の100%全力電話をしてしまったせいか、その時は話がうまく進まなかった。その後、入院していた病院に紹介文を書いてもらったが、それを活用する前に永眠した。
日々の容体 : 部屋から出られない時も、ベッドからは出て、座って食事していた。調子がいいときは居間にくることもあった。母が、父に用事があるときは、椅子等周りのものを叩くのだが、父は何故か聞こえていない時が多かった。聞こえないと、母が怒りながら両手を叩き出す。私が間に入れる時と入れない時がある。この状況は相当シュールというか、残酷というか、ものすごく苦しい。 訴えて怒る言葉を発せない母と、聞こえない(聞こうとしない?)父と。この状況、病気にいいわけない。この時点で引き離すべきだったのか? この状況になるまでは、絶対に治ると信じていたが、ここに来て、その自信が文字通りガラガラガラガラと悲しいほど大きい音を立てて崩れて行く。。。
すぐにでも病院にいきたかったが、母は断固拒否。何ができるのか、どうしたらいいのか、わからない日々。状況が切羽詰まると、焦るしパニックになる。もう少し余裕があるときに、色々やった方がいい。周りも、本人も。患者本人が割と元気そうに見える間に。。。
母の癌・闘病記。母の闘病【救急搬送・最後の病院】
初期症状が発覚した翌年の年末。
自宅療養中に意識不明。不穏状態。横たわって、意識ないのに、手が上にあがる。
在宅療養の限界を感じ、近所の在宅治療を請け負っている医療機関に相談。その手続きをしている途中のことだった。
この状態になったら、在宅では無理なので救急車を呼びましょう、となった。
しかし、この状態でも父は救急車を呼ぶことを拒否。母が病院に行きたくない、と言ったと。
もはや至急入院しなければ命の危険がある状態。救急車を呼ぶか、死ぬか、どちらかだ。
母がこの状態なのに、父の救急車拒否は、現実逃避か、本当に現実が見えていないか、どちらか。
救急車呼ぶ以外の選択肢ある??? ないよ。あるわけない。
12月31日、救急車搬送。
この日から 、病室で姉と父が交代で母に付きそう。
私は実家で1歳児の面倒を見ながら、みんなのご飯と家事。時間的に全員で話し合うのは難しいから、各自交換ノートに毎日の連絡事項記載。
その甲斐があったのか、しばらくするとだいぶ母の調子が上がって来た。
ここまで来たら、一度姉は海外に戻れるかな、となった。
私も一旦自宅に帰宅。父も病院にいる時間を短くした。
ホッとした気持ちに。 。。
ところが、 しばらくしたら、また急変。緊急招集。急いで病院にいく。
1歳児も病室に入っていいと。もうヤバイかもしれない、と。
良くなって来たと思っていたのに。。病室に入る。母の意識はない。
1歳児と話しかける。全然反応ない。ここで、もう治らないかも、本当にダメかも、と思ってしまった。
急いで姉にも連絡。
その後数日で永眠。。2月に入ってすぐだったかと思う。
病院からの出棺になった。出棺には、急いで帰国した姉も間に合った。
初期症状からここまで、1年半くらいだろうか。。
母の癌・闘病記。母の闘病【死後】
母の死後、1年程経った頃、医師が記載した紹介文が見つかった。
使用する前に亡くなってしまったので放置していたものだ。
中身を読んで驚愕した。
びっくりしすぎて、声が出なかった。
父から聞いていた病状より、最初からかなり悪い、と読み取れる。
読み間違いかと、何度も何度も見返してしまうほど、悪い病状。
え? 本当に? これが事実?? これを医師から報告されていたの???
物理や数学がよくできた父で、その科目の教師免許ももっていたし、頭がいい人だと信じてきた。
もしこの病状だったら、点滴抗がん剤をうけずに、環境のよいホスピスに入った方がよかったのでは。。。
だって、点滴の抗がん剤で治るレベルにない。
後悔しないように、と思ってたはずなのに。。